一般社団法人日本流行色協会 JAFCA



JCCクリエイターが語る陶磁器の世界 今田レポート⑩

「名は体を表す」

今田 正義
イマダプランニング 代表

古来 私達日本人は道具を非常に大切にしてきました。職人の腕は道具を見れば分かる言われ、今日でも何もしゃべらない機械に○○チャンなどと
愛称を付けて愛用します。
茶道は日本人の細やかな思いやりの心を「茶道具の銘」に表現してきました。著名な茶碗の銘を挙げてみます。

    岐阜県・美濃焼き・志野茶碗 銘・卯の花かき、国宝

    京焼・光悦黒楽茶碗 銘・雨雲 重要文化財

    佐賀県・唐津焼・奥高麗(おくごうらい) 銘・深山路

いずれも風流を旨とする和歌、俳句の中から持ち主の思い入れで名づけられています。

利休の言う「わび茶」の心を表した和歌
  「見渡せば 花もとまやもなかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮れ」
                                 藤原定家作
千家流家元に伝えられる七事式の「おきてがき」の一つです。



「わび茶」の茶碗の中でも特に窯変のしみ、ひずみ、きず、よごれ、などを 
景色として珍重した中に、変わった銘があります。

朝鮮・李朝時代に焼かれ、我が国へ持ち帰られた高麗茶碗は朝鮮では
飯茶碗でしたが茶人や茶人武将が「わび」を認め、茶碗にしました。

 高麗茶碗・柿の蔕(へた) 銘・毘沙門堂(びしゃもんどう)
                 畠山記念館蔵・重要文化財

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 高麗茶碗・雨漏り(あまもり) 銘・雨漏堅手(あまもりかたて)
                   根津美術館蔵・重要文化財

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イラストは平凡社発行・やきもの事典126頁より模写しました。



何故変わり形、ひび割れ、ひずみ、などを持てはやしたのかは
我が国の歴史的根底に流れる「因果応報の人生観」「もののあわれの情感」「くずれゆくはかなさ」。 「平家物語」「徒然草」「方丈記」などに見る無常の文学にあります。
日本人に最も愛されている漂白の歌人・西行の和歌
 「ねがはくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの望月のころ」

つまり満開に咲き誇る花よりも散りゆく花に美を求めました。利休が求めた
静寂美、枯淡美です。
俳句の季語にもなっている「花筏(はないかだ)」 三省堂・大辞林より
「散った桜の花びらが水に浮かんで帯状に流れて行くのを筏に見立てる」


銘、箱書き、伝来書などは茶碗の箱や書置きとして大切に保存されます。
写真の箱の古ぼけて破れた箱書きを参照してください。

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           「利休は大商人」

「茶頭(さどう)」と呼ばれた武野紹鴎、今井宗久、千利休は堺港(大阪府)の大商人でした。
16世紀初めの頃、堺は鉄砲を作る職人が集まり、明・琉球・李朝鮮との
対外貿易で栄え、当時来訪の宣教師・ヴィレラは「ヴェネチュァ市の様に、
執政官による自治区で、傭兵隊まで持つ」と本国へ報告しています。
利休など茶頭は南蛮渡りの珍しい道具を見立て、高値で売っていました。
利休の鑑識眼にとまった物は何でもかんでも高くなり、これも秀吉の癇にさわりました。

そして近代の大茶人も大商人です。参考までに著名な名を挙げてみます。 キラ星の如しです。
   
    岩崎弥太郎・三菱商事    根津嘉一郎・東武鉄道
  
    松永安左衛門・東京電力   出光左三・出光石油

    原三渓・横浜の豪商      小林一三・阪急電鉄

    益田鈍翁・三井物産      畠山即翁・荏原製作所

    大倉喜八郎・大倉組      五島慶太・東急電鉄    
 
    藤田香雪・藤田組        藤原銀次郎・王子製紙


財力と鑑識眼で収集し、豪勢な茶会に用いられた数々の名品名物が、
第二次大戦後、税金対策と自己の名を後世に残すために、美術館蔵として、深窓の国宝級・重文級のお宝が一般に公開され、美術史上第一級の逸品が見学できるように成った事は喜ばしいかぎりです。



     
         「観察者・鑑定家の鑑識眼」

中公文庫の「日本史を読む」丸谷才一・山崎正和対談集から
丸谷「信長、秀吉は荒くれの武将を教育するのに茶の湯をもってした」
山崎「中国の場合、歴代の皇帝がご覧になったという判子を残す」
丸谷「それでベタベタ判子をおしてあるわけだ」「笑い」

つまり美術品は誰が認め、誰が持っていたかと言う事が価値を高めるのです。例えば
世界文化社・名品茶碗に因れば「高麗茶碗・青井戸 銘・柴田、重要文化財指定」は信長が所持し、柴田勝家が拝領したので、この銘があり、
後に平瀬家、藤田家に伝わり現在 根津美術館蔵と成っています。 

箱書きを誰が書いたかも茶道具の価値を高めています。
茶人大名で有名な松江藩主・松平不昧公は名物集を書き、箱書きを
残した鑑定家でした。
上記の丸谷、山崎両氏に因れば西洋には鑑定という「役」をする人が無かったそうです。東洋の方が美術文化的には進んでいたとの事。

魯山人・ムック誌・平凡社・1983年版に因れば
画家・文化勲章受賞の故中川一政が誌のとびらに書いています。
「魯山人が亡くなってから作品の呼び声がたかくなった。(中略)岸田劉生
ともにあくが強かったから味方もつくったが敵もつくった。(中略)鑑賞家・
魯山人であることは確かかだが創作家・魯山人ではなかったようだ」
偉大な業績を残した魯山人は桃山・江戸時代の古陶器を世に知らしめました。大商人・大茶人であった三井物産の大番頭・益田鈍翁に魯山人は
人を通じて何度も面会を求めたそうですが、鈍翁は一切会おうとしなかったそうです。


 切手にもなった「麗子像」を描いた岸田劉生のことを故大塚信雄日動画廊常務は「劉生が謙虚な人間だったらもっと評価が高いだろうね」



織田有楽斎(おだうらくさい1547~1621)は茶人大名で、鑑定家でした。
大阪冬の陣後(1614)引退し、京都東山へ茶室「如庵」を建て、これが
現在 名鉄・犬山ホテル庭園内に移築され、昭和26年(1951)国宝に指定されました。
茶室の額の「如庵」(Joan)は有楽斉の洗礼名、信長の弟であったために
弾圧されなかったようです。 
今の東京有楽町は有楽斉の屋敷が在り、数寄屋橋は数奇屋を構えた所に因んで付けられた名前です。

イラストはムック誌・太陽の茶室を参照し、私が現地見学した折に写真を撮り、描きました。非対称の日本建築美の傑作です。

 
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 次回は「茶会の陶磁器と茶事」。興味深いエピソードをお知らせします。ご期待下さい。


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